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くわまん日野日記
2000年10月・鳥取西部地震。地震直後から、コツコツと災害ボランティア活動を続ける、我らが、くわまん。そんな彼が綴る体験記です。

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phan-phan
第二部 <米子ボランティアセンターにて>
10月10日

 災害ボランティアを募集していることを新聞で知り、米子のボランティアセンターに行ってみた。現在フリーターである自分のような者が行かなければ平日は人が足りないだろうと思ったからだ。とにかく、かるい気持ちだった。

 ここで、私より少し後にやってきたS君と知り合う。彼は私と同じ26歳、東京の大学院生で、たまたま米子の実家に帰っていたときに地震にあい、昨日からボランティアにきているということだった。

 意外とボランティアのニーズは少なく、しばらく待機。報道していたように、やっぱり今回の地震は神戸に比べて全然たいしたことないのかと思いはじめた。この考えは夕方には改めることになるのだが・・・。

 今日最初のニーズがはいった。庭石が倒れているので起こして欲しいとのこと。ボランティアにできることなん?と思いつつも、ほかにニーズがあるわけでもないのでいってみることに。この時点で力仕事ができそうなのは私とS君しかいなかったので、この2人を含む3人で出発。

 現場に着くと、かなり高齢のおばあちゃんがでてきた。おじいちゃんと2人暮らしだが、おじいちゃんは墓石を見にいっているらしい。作業自体はごく小さな庭石を直すだけで「あ、これは業者に頼むようなもんじゃないわ」と思ったが、確かにお年寄りには無理だろう。石が元通りになると、こちらが恐縮してしまうほど感謝された。「そうか、こんなことでも役にたてるんだ。」今回の私の活動の原点である。

 午後からはニーズもなかったので、人手が足りないとの情報のあった西伯町のボランティアセンターに派遣という形で行った。S君らと4人で。

 そこでは「赤谷という地区の独り暮らしのおばあちゃんの家の窓をなおしてほしい。それから、かなり不安を感じておられるようなので、話相手にもなってあげてほしい」ということで出動。

 その赤谷とは、かなり奥地の集落で、家もほとんどないようなところだった。ここに向かう途中で今回の地震の大きさをおもいしることになった。道沿いの山は崩れ、橋が落ち、全ての石垣は崩壊し、傾いた家も多い。結局今回の地震の特徴はこれなんだと思う。震源が山の中にあるため揺れの大きさの割に数字上の被害が少ない・・・。人が少ないところなので情報があまり伝わってこない・・・。

 現場に到着。おばあちゃんと呼ぶのは失礼と思えるおばちゃんが出てこられた。「これはおばあちゃんなんて呼ぶことはできないな」と思っているところに、一緒に出動したおばちゃんが、「おばあさんが大変不安を感じておられるということで・・・。」「あああぁぁーお!!なんてことを!」くわまん心の叫び。おばちゃんが一瞬不機嫌な顔をしたように見えた。

 窓の方はというと、縁側の窓が湾曲して何枚かははずれていた。家が変形して窓枠の高さが窓の高さより低くなっているのである。これは赤紙張られることになるのかなと思いつつも、ジャッキを使って窓枠をひろげ、窓をはめた。

 あたりは暗くなりはじめ、これで私のボランティア初日は終了した。

 
10月11日

 この日は、まず、液状化でふきだした泥を撤去しに出動した。昨日、私とS君が「力仕事できるのは君達しかいないから。2人で30分程の作業だから」とコーディネーターの人に言われていたのだ。

 あぁ、今思えばなんと詐欺的な言葉だったことだろう!!幸い、もう一人おじさんが来られたので3人で作業したのだが、1時間ほどかかった。液状化のあの重い泥をスコップで休みなくかきだし続けて1時間である!!!作業後、道端に座り込む3人の姿があった。それはまるで、あしたのジョーの最終回ようだったという(わかるかな〜?)。

 センターに帰ると、大阪からやってきたという大学生と知り合った。この茶髪の男こそおけピーである。もっとも、彼も私もこの時点では「おけピー」「くわまん」などと呼ばれるなどとは、予想だにできなかった。ましてやA.P.F.などという、あやしい団体の構成員にさせられることをや(???)。

 この日もボランティアの数に比べてニーズが少なかったことから、午後からは日野町に派遣。S君、おけピー(仮)、私を含む約10人。

 日野町の災害ボランティアセンターに着くと、「下榎で人が足りないから、そこの元気村に行ってほしい」と地図を渡された。しかし、いくら地図を探しても「元気村」なんてない。それもそのはず「元気村」とはあの有名な神戸のボランティア団体であり、下榎で活動していたのであるが、私たちのなかで知っているものはいなかったのである。

 「国道は通れないから迂回路で」という指示に従って移動。道中、崩れた岩が落ちてるは、道がひび割れたり崩れたりしてるは、段差はできてるはで、もう大変。愛車シルビアは飛ぶは跳ねるはでもう泣きそう。「災害地 パジェロで行こう 気を付けて」

 本来10分でいける距離をおよそ50分かけて現地に到着。帰るときに、実は迂回せずに行くことができたという衝撃の事実を知ることになるのだが・・・。

 そこでは、まず、おけピー(仮)と軽トラで土嚢を取りに行った。「めいっぱい積んできてほしい」とのこと。2人で土嚢を積み込みはじめた。最初は話をしながらだったが、重労働でだんだん無口に・・・。そのときだった。「ストップ!ストップ!」おけピー(仮)がタイヤを指差した。そう、タイヤが完全につぶれていたのである。

 軽トラの最大積載量は350kgである。にもかかわらず土嚢を山積みしたのである。あほである。どうするかしばらく考えたが、いまさら山積みした土嚢をおろすのも悔しかったので、近くのガソリンスタンドで空気を入れることに。時速10km、迷惑な2人。

 元気村の本部に帰ると、各家庭をまわってニーズをきいていた。「ニーズなんて待ってたって来ないよ。電話だって臨時回線なんだから」とはスタッフの言。そりゃそうだ。今思えば米子はこの点で不十分だったのでは。

 帰る前に米子から来たメンバーで話をしていたら、意外な事実が発覚。メンバーの多くが26歳だったのである。最近17歳がよく話題になるが、我々も負けてはいない。「暴走する17歳」ならぬ「迷走する26歳」である。いや、ほんとはみんな無理に時間を作ってきてるんだけどね。

 おけピー(仮)は日野に残った。

 
10月13日

 くわまんの姿が京都にあった。この日は受験した資格試験の合格発表だったのである。受験仲間でもある、友人のO君と待ち合わせて昼食。最初はくだらない話や地震の話などでもりあがったが、時間が近づくにつれて空気が凍結・・・。

 夕方、夕日に向かい賀茂川土手で黄昏る2人がいた。ここは犬の散歩をさせる人が多いところである。それを見つめながら「犬でも飼おうか?」「そうだね。」現実逃避。

 夜は、友人のI君、YU君と滋賀のYU君の家で飲んだ。いつもはすぐにアルコール自動吸引モード(高速手酌モードとも言う)に入り自爆するI君がこの日は自重ぎみ。「おれだって成長するんだよ」しかし、・・・すぐ寝た・・・。YU君と地震の話をした。私が目にしたものを語ると、彼は驚いていた。やはり、報道からはあれほどのものだとは想像できないらしい。死者ゼロ・・・それは奇跡的だと思うのだが・・・。

 
10月15日

 この日は「倒れた壁が道路をふさいでいるので撤去してほしい」との依頼で出動。どうせブロック塀だろうと思っていたが、現地について茫然。半分建物ともいえるような土壁が道路側に完全に倒壊、およそ15mにわたって道をふさいでいた。その瓦礫の高さ1〜2m。「こんなん人間にできるかい!おれらはゴジラか!」結局、まだ崩れそうな部分などの危険個所に防止策をとっただけで撤収した。

 センターに帰ると、たくさんのボランティアでごったがえしていた。人出は過去最高、ニーズはあいかわらず少ない。

 そんな中で、ひときわ目を引く男がいた。「ピンク」のスタッフジャンパーを着た坊主でひげの男である。スタッフジャンパーは、ボランティアがあやしい者と間違われないように(実際、「市役所の方から来ました」などといって屋根にシートを張り、数十万円請求されたという被害もでていた)出動するときに着ていくようにわたされるもので、いずれも螢光色(!)で緑、黄色、ピンクとあるのだが、みんな緑か黄色を選び、しかもあまり着たがらない。

 そんな状況の中、彼は、いや彼だけは喜々として「ピンク」のジャンパーを着ていたのである。私は思った、「かかわりあいになるのは避けよう。」

 しかし、私の願いは天に届かなかったのか、その思いは打ち砕かれた。その男が「うどん食べます?」と声をかけてきたのである!私は返事をためらった。ずっとコンビニおにぎりばかりだったので、インスタントとはいえ温かいうどん自体はうれしかった(後にカップ麺地獄に苦しむとはしらず)。しかし・・・。

 「それじゃあ、お願いします」結局、私は誘惑に負けた。彼はその後もみんなに声をかけ続け、楽しそうに何度も給湯室へ往復してはおぼんいっぱいのカップうどんを運び続けていた。「なぜなんだぁーー?」いまだに謎である。

 昼食をとりおわると、例の男、かわいい(と言っておこう)女性2人、スタッフの男性が親しく話をしているのに気付いた。なにをかくそう、彼らが後のぽん輔、なおぽん、やまごん、あべちゃんである。あべちゃんはスタッフっぽい赤いジャンパーを着ていたうえに、「救急救命士」なる名札をつけていたので、この時点ではスタッフだと思い込んでいた。

 午後からもニーズはなく、米子の災害ボランティアセンターはお開きになった。他のセンターに行こうかとも思ったが、どこも人は足りているとのことだったので(後に、この日がボランティア数のピークで特に日野町は400人来ていたことを知る)、帰宅することにした。

 駐車場で、車に乗ったなおぽん(仮)、ぽん輔(仮)に会う。なおぽん(仮)から日野に行くということをきいて、「がんばって。さようなら」このときは再会するとは思ってもみなかった。

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