日野のボランティアセンターも平日には人が足りないのではと思い、日野に行ってみた。
センターの駐車場に車を停め、センターに向かって歩いてるところで車とすれちがった。運転席には見たことのある顔。「あ、おけピー(仮)だ。まだ、いたんだ。」私は手をあげて挨拶をしようとした。しかし・・・。車はそのまま行ってしまった。顔までつくっていたのに。私は一瞬固まった後、やりばのない手をみつめ・・・。とりあえずその手で頭をかいておいた。「いや、何もなかったよ。」
センターに入ると、米子のときと同じ様にけっこう多くの人が待機していた。「ここも、やっぱり人あまりか」とも思ったが、米子とは事情が違う。かなり多くの人が活動している中での待機である。依頼は多い。
午前中、解体予定の家からの荷物搬出、ひび割れた斜面に水が入って崩れないようにするためのシート張りをして、昼食。このセンターでは、人が多いことから、外に張ったテントで食事をとるようになっていた。そこにおりていくと、「あれ?」と声が。見ると坊主でひげの男である。「どこかでみたな」と考えること5秒・・・。「あぁ、米子で」ぽん輔(仮)である。
まわりを見ると、なおぽん(仮)、あべちゃん(仮)、そしてやや年上と思われる男性がいた。「ヨッシーだよ」となおぽん(仮)。「ヨッシー・・・ですか・・・」そう、ヨッシーだけは私にとって初めから「ヨッシー」で「(仮)」のつくことのない唯一のA.P.F.メンバーである。ヨッシーなんて呼ばれるんだから、意外と同年代かもと軌道修正。その真相は夕方に明らかになるのだが。ちなみに、昼食はカップラーメン。この頃は、まだカップ麺の種類が豊富にあった。
昼食後、ファッションショーbyぽん輔(仮)が開かれた。彼は、センターに山積みにされたカッパの中からもんぺの様な柄のものを見つけてしまったのである。その名も「ハイ=モンペ」、私たちは「ハイパーモンペ」と呼んでいたが。とにかく、彼はそれを喜色満面で着て、みんなに見せていたのである。これ以来もんぺを着続けた彼のトレードマークはもんぺとなる。私は思った、「やっぱり係わり合いになるんじゃなかった。」
午後からは、彼らと瓦礫の撤去に行った。蔵から落ちた瓦、崩れた納屋の土壁などその量は多く、藤原自動車号(伝説の軽トラ。そのすごさについては、後日私が初めて運転したときの走行インプレッションで)で臨時瓦礫置場の滝山公園まで数往復。その間、残ったメンバーは休憩。
そのとき、なおぽん(仮)が庭の柿の木に目をつけた。実がたくさんなっている。「おじいさん、あの実はどうやってとるんですか?」「ああ、あれはね、・・・」と、その家のおじいさんにY字型の棒を使ってとる方法を指導してもらっていた。そして、とれたときには大喜び。
しかししかししかーし、・・・持って帰るのを忘れた。おじいさんは、忘れ去られた柿を見て、何を思っただろう?きっと大喜びのなおぽん(仮)とのギャップに苦しんだにちがいない。まあ、私には分かっていたけど。なおぽん(仮)は柿が欲しいんじゃなくて、ただ、とってみたかっただけなんだと。
活動終了後、なぜか年齢当てクイズ。な:「ヨッシーって何歳だとおもう?」く:「う〜ん、27歳?」な:「ブー」く:「26?」な:「ブー」ヨッシーという呼び方から同世代だと思い込んでいた私はお手上げ。く:「分からんわー。何歳?」ヨ:「34」
驚きである。まさかそんな違うとは。な:「じゃあ、くわまん(仮)は何歳でしょう?」ぽ:「え〜、さんじゅう〜いくつ?」私は誓った。こんなぽん輔(仮)にいつか鉄拳制裁。
夜、みんなで米子に飲みに行くことに。メンバーのほとんどはずっと泊まりだったから、そろそろ帰る者もいたし、ガス抜き的な意味もあった。ボランティア同士がこうやって楽しくやることに否定的な見方をする人も少なくないが、私は大反対である。不謹慎だというのであるが、楽しくやって何が悪いというのか。神妙な顔をした人がたくさんやってきて、黙々と作業だけして帰っていく。これでは形だけの復興しかできないのではないか。ボランティアが楽しくやっていることで、被災された方にも元気を与えることができるのではないだろうか。それが本当の復興であると私は思う。
着いた店は「養老の滝」。初めて8人がそろった。マリリン(仮)とは初の御対面である。彼女はなぜかお寺に泊まって活動していたからである。おとなしそうな人だと思った。このときは。そんな中で名簿が作成された。このときなおぽん(仮)が書いた内容により、後日ぽん輔(仮)の身に悲劇が・・・。
この後、「なぜだか」ぽん輔(仮)がみんなにファミリーネームをつけはじめた。「はい、くわまんね。」「そうか。・・・って、なんでやねん!」そんな名前では小肥りの中年男しかイメージできない。私は抵抗を試みたが報われず、「まあ、やまごんよりはましか」と無理やり納得してみた。ここにめでたく全員の「(仮)」がとれるのである。いや、言い出した当の本人を除いては。
飲み会も終盤に差しかかった頃、事件は起きた。「いやー、もう、やめてよー。」などとマリリンが意味不明の言語を口にしはじめたのである。「え?何?」と隣に座っていた私がきくと、「だからー、もう!」と奇声を発し、でもなぜか笑っていた。暴走機関車。私は「誰かマリリンをとめてくれー!」と思ったが、同時に「もう誰もマリリンをとめられない」とも思っていた。教訓、人は見かけではわからない。
その頃、誰かが、店内には座敷の我々を除いてもう他の客がおらず、椅子は全てテーブルの上にあることに気付いた。「そろそろ、閉店かも。」しかし、まだ23時前である。「まさかー。日付がかわるまえに閉まる飲み屋はないだろー。」誰かが大声で言った。みんな酔っていたからね。5分後、「ラストオーダーになりますが。」ああ、店員さんごめんなさい!
その後、私はおけピーに車に乗せてくれるよう頼まれて、再び日野町へ。飲み会をやっているときにも余震があって、日野町が震度4ということを知った彼はいても立ってもいられなかったらしい。みんなには理由も言わなかった。飲み会がしらけるのではないかと気を使っていたのだろう。
日野町に着くと、深夜にもかかわらず、センター内は慌ただしかった。被害状況の調査である。結局新たな被害はほとんどないことが分かり一安心。
その夜はセンターに泊めてもらえることに。ただ、スタッフでいっぱいだったので、トイレ前の廊下で寝る羽目に。
大変な一日であった。
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