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くわまん日野日記
2000年10月・鳥取西部地震。地震直後から、コツコツと災害ボランティア活動を続ける、我らが、くわまん。そんな彼が綴る体験記です。

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phan-phan
第三部 <日野町にて -A.P.F.結成- >
10月17日

 日野のボランティアセンターも平日には人が足りないのではと思い、日野に行ってみた。

 センターの駐車場に車を停め、センターに向かって歩いてるところで車とすれちがった。運転席には見たことのある顔。「あ、おけピー(仮)だ。まだ、いたんだ。」私は手をあげて挨拶をしようとした。しかし・・・。車はそのまま行ってしまった。顔までつくっていたのに。私は一瞬固まった後、やりばのない手をみつめ・・・。とりあえずその手で頭をかいておいた。「いや、何もなかったよ。」

 センターに入ると、米子のときと同じ様にけっこう多くの人が待機していた。「ここも、やっぱり人あまりか」とも思ったが、米子とは事情が違う。かなり多くの人が活動している中での待機である。依頼は多い。

 午前中、解体予定の家からの荷物搬出、ひび割れた斜面に水が入って崩れないようにするためのシート張りをして、昼食。このセンターでは、人が多いことから、外に張ったテントで食事をとるようになっていた。そこにおりていくと、「あれ?」と声が。見ると坊主でひげの男である。「どこかでみたな」と考えること5秒・・・。「あぁ、米子で」ぽん輔(仮)である。

 まわりを見ると、なおぽん(仮)、あべちゃん(仮)、そしてやや年上と思われる男性がいた。「ヨッシーだよ」となおぽん(仮)。「ヨッシー・・・ですか・・・」そう、ヨッシーだけは私にとって初めから「ヨッシー」で「(仮)」のつくことのない唯一のA.P.F.メンバーである。ヨッシーなんて呼ばれるんだから、意外と同年代かもと軌道修正。その真相は夕方に明らかになるのだが。ちなみに、昼食はカップラーメン。この頃は、まだカップ麺の種類が豊富にあった。

 昼食後、ファッションショーbyぽん輔(仮)が開かれた。彼は、センターに山積みにされたカッパの中からもんぺの様な柄のものを見つけてしまったのである。その名も「ハイ=モンペ」、私たちは「ハイパーモンペ」と呼んでいたが。とにかく、彼はそれを喜色満面で着て、みんなに見せていたのである。これ以来もんぺを着続けた彼のトレードマークはもんぺとなる。私は思った、「やっぱり係わり合いになるんじゃなかった。」

 午後からは、彼らと瓦礫の撤去に行った。蔵から落ちた瓦、崩れた納屋の土壁などその量は多く、藤原自動車号(伝説の軽トラ。そのすごさについては、後日私が初めて運転したときの走行インプレッションで)で臨時瓦礫置場の滝山公園まで数往復。その間、残ったメンバーは休憩。

 そのとき、なおぽん(仮)が庭の柿の木に目をつけた。実がたくさんなっている。「おじいさん、あの実はどうやってとるんですか?」「ああ、あれはね、・・・」と、その家のおじいさんにY字型の棒を使ってとる方法を指導してもらっていた。そして、とれたときには大喜び。

 しかししかししかーし、・・・持って帰るのを忘れた。おじいさんは、忘れ去られた柿を見て、何を思っただろう?きっと大喜びのなおぽん(仮)とのギャップに苦しんだにちがいない。まあ、私には分かっていたけど。なおぽん(仮)は柿が欲しいんじゃなくて、ただ、とってみたかっただけなんだと。

 活動終了後、なぜか年齢当てクイズ。な:「ヨッシーって何歳だとおもう?」く:「う〜ん、27歳?」な:「ブー」く:「26?」な:「ブー」ヨッシーという呼び方から同世代だと思い込んでいた私はお手上げ。く:「分からんわー。何歳?」ヨ:「34」

 驚きである。まさかそんな違うとは。な:「じゃあ、くわまん(仮)は何歳でしょう?」ぽ:「え〜、さんじゅう〜いくつ?」私は誓った。こんなぽん輔(仮)にいつか鉄拳制裁。

 夜、みんなで米子に飲みに行くことに。メンバーのほとんどはずっと泊まりだったから、そろそろ帰る者もいたし、ガス抜き的な意味もあった。ボランティア同士がこうやって楽しくやることに否定的な見方をする人も少なくないが、私は大反対である。不謹慎だというのであるが、楽しくやって何が悪いというのか。神妙な顔をした人がたくさんやってきて、黙々と作業だけして帰っていく。これでは形だけの復興しかできないのではないか。ボランティアが楽しくやっていることで、被災された方にも元気を与えることができるのではないだろうか。それが本当の復興であると私は思う。

 着いた店は「養老の滝」。初めて8人がそろった。マリリン(仮)とは初の御対面である。彼女はなぜかお寺に泊まって活動していたからである。おとなしそうな人だと思った。このときは。そんな中で名簿が作成された。このときなおぽん(仮)が書いた内容により、後日ぽん輔(仮)の身に悲劇が・・・。

 この後、「なぜだか」ぽん輔(仮)がみんなにファミリーネームをつけはじめた。「はい、くわまんね。」「そうか。・・・って、なんでやねん!」そんな名前では小肥りの中年男しかイメージできない。私は抵抗を試みたが報われず、「まあ、やまごんよりはましか」と無理やり納得してみた。ここにめでたく全員の「(仮)」がとれるのである。いや、言い出した当の本人を除いては。

 飲み会も終盤に差しかかった頃、事件は起きた。「いやー、もう、やめてよー。」などとマリリンが意味不明の言語を口にしはじめたのである。「え?何?」と隣に座っていた私がきくと、「だからー、もう!」と奇声を発し、でもなぜか笑っていた。暴走機関車。私は「誰かマリリンをとめてくれー!」と思ったが、同時に「もう誰もマリリンをとめられない」とも思っていた。教訓、人は見かけではわからない。

 その頃、誰かが、店内には座敷の我々を除いてもう他の客がおらず、椅子は全てテーブルの上にあることに気付いた。「そろそろ、閉店かも。」しかし、まだ23時前である。「まさかー。日付がかわるまえに閉まる飲み屋はないだろー。」誰かが大声で言った。みんな酔っていたからね。5分後、「ラストオーダーになりますが。」ああ、店員さんごめんなさい!

 その後、私はおけピーに車に乗せてくれるよう頼まれて、再び日野町へ。飲み会をやっているときにも余震があって、日野町が震度4ということを知った彼はいても立ってもいられなかったらしい。みんなには理由も言わなかった。飲み会がしらけるのではないかと気を使っていたのだろう。

 日野町に着くと、深夜にもかかわらず、センター内は慌ただしかった。被害状況の調査である。結局新たな被害はほとんどないことが分かり一安心。

 その夜はセンターに泊めてもらえることに。ただ、スタッフでいっぱいだったので、トイレ前の廊下で寝る羽目に。

 大変な一日であった。

 
10月18日

 朝、かなり早く目が覚めた。寝ていたのが廊下、それもトイレの前だったから、人が頻繁に頭もとを通るし、トイレのドアの音も気になって、とても寝ていられなかったのだ。ふと見ると、おけピーは爆睡中。羨ましい。いや、こうはなりたくないか・・・。なんて、これは冗談で、彼は相当疲れていたはず。ずっと泊まり込みでやっていたし、ボランティアの宿泊所は体育館だったから、ここのところの冷え込みでとても寝てられないと彼はこぼしていた。だから、いくらこんな場所でも、エアコンのあるセンターは彼にとって天国だったのだろう。結局、私は出動するころになっても、彼を起こすことはできず、そっとしておいた。

 この日最初の仕事は石垣をセメントで固めること。ただ積んであっただけの石垣の隙間にセメントをつめるという作業の補助。「これは震災ボランティアじゃないだろ〜」と思ったが、まだ活発な余震に対する備えと考えれば、震災ボランティアかも。でも、やっぱ、あれはボランティアのすることじゃないよ〜な。結局、いまだに答えは分からない。みなさんはどう思うだろう?

 作業も終盤にさしかかり、石垣の上部を固める段階に。しかし、この石垣の上には納屋が建っており、このままではセメントをいちいちスコップで納屋の中まで運ばなければならないため、この家のおじいさんたちが相談していた。

 そのときだった・・・。ガァァ〜ン!、ガァァ〜ン!!、ガァァ〜ン!!!。ナント!いっしょに来ていたIBさんがスコップで納屋の壁の一部を叩き壊し始めていた(!)。「おぉ、神よ!私が何か悪い事をしましたか?」恐る恐るおじいさんたちの方を見ると・・・、みんなひいていた。でも、善意でしてることなんだから・・・と何も言わなかった(ように私には見えた)。

 無事(?)終了し、センターに帰ると、おけピーも活動を開始していた。昼食後、彼と米子から来たという夫妻とで、地震で動いた冷蔵庫を戻してほしいというおばあちゃんの家へ。

 作業自体は簡単なものであったが、おばあちゃんが相当まいっているらしいと聞いていたから、話をした。すると、話しながら地震のことを思い出すと言葉につまって泣き出してしまった。思いだし笑いならぬ思いだし泣き。落ち着いたと思えば、先日亡くなったというおじいさんのことを思い出すと言葉につまって泣き出してしまう。こんなことを繰り返すこと数回。その状況はまるでコントの様ではあるが、ここまで心に傷を負っている人がいることを知り、胸が痛む。

 屋根のシート張りにも行った。その家には「危険」を意味する赤紙がはられていたが、まだ行き先が決まらないということで住んでおられた。二階の窓から屋根に出るため初めて赤紙の家の中にはいった。どうせ壊すということで土足。中で見たのは驚くような光景だった。ドアは変形し、床は歪み、階段はブラブラと揺れた。私はもともと高所恐怖症だが、今回いろいろな所で屋根に上がり少しずつ慣れてきていた。

 しかし、この家は、雪が多いことから屋根が高く傾斜がきついこのあたりの家のなかでも特にすごかった。窓から屋根に出たところで氷り着いてしまったのだ。それでも、なんとか平気なふりをして作業をしていたが、手ははなせなかったし、変なところに力がはいっていたのか、妙な全身筋肉痛。下に人手がいるようになったのをいいことに、「はい!行きます!」と速攻。へたれ、くわまん。

 夜はおけピーと米子で唐揚定食。明日、大阪に帰るというおけぴーを「なぜか」レンタカー屋まで送って別れた。

 
10月20日

 この日は朝から雨が降っていた。濡れるのは嫌だなと思ったが、やはり日野町に足が向く。

 最初の仕事は、運搬ということで黒坂という地区へ。このお宅も赤紙だった。玄関の引き戸は開いたままで、戸の枠は大きく変形していた。戸が、いわばつっかえ棒として建物を支えているような状態だった。

 そこのおばさんが運んでほしいと言った荷物は、あまり役に立ちそうにない物、いやガラクタばかりだった。「こんなガラクタどうすんのやろ?」と思いながらも、「人の価値観はいろいろだからなぁ」と作業していた。そして、すべてのガラクタ、いや荷物を軽トラいっぱいに積み終わり、「どこまで運びましょう?」「滝山公園までお願いします。」は?滝山公園とは震災の臨時ゴミ置場である。「これ、捨てるんですか?」「ええ。建物を取りこわすので、いらんもんを捨てようとおもいまして。」「・・・・・・。」

 建物を取りこわすのなら、そのままにしておいて、瓦礫と一緒に処分してもらえばよかったのである。いままでの苦労は、いったい・・・。私は密かに泣いた。結局、もとどおり荷物、いやゴミをもどして、帰った。1時間の無駄な重労働。パンパカパンパンパンパーン!!くわまんはレベルが上がった。「作業前確認」の呪文をおぼえた。

 昼、食事をとろうとテントに着いたところで、センターに帰ってきたヨッシーのキャラバンを発見。「なぜだか二人乗り」のこの車の助手席には、大阪に帰ると言っていたおけピーが。しばらくすると、ヨッシー、ぽん輔(仮)、あべちゃん、そして若そうな知らない人物もテントにやってきた。

 「なんだ、やっぱおけピーじゃなかったんだ」と思っていると、「はらっぺです」とぽん輔(仮)。なおぽんとマリリンも帰ったということだった。それにしても、なおぽんは楽しい人だった。さすが九州男児(あ、これはオフレコね)。この前の飲み会の話をしていたら、「そうそう、あの後、こいつはぽん輔に決まったし。それから、グループの名前はA.P.F.やし。」とヨッシー。

 そこで、素朴な疑問、「A.P.F.って何です?」「A.P.F.はA.P.F.や。」名前の意味も知らず、あやしい団体のメンバーにされてたまるかと、それにも負けずくいさがって、やっと聞き出すことができた。え?結局何の略かって?それは・・・、A.P.F.の会員になればぽん輔が教えてくれるかも。(注:保証はしません)とにもかくにも、これが私にとってのA.P.F.のスタートである。

 そんな話をしながら、カップラーメンを食べ終わるころ、「うどん食べます?」さすが、うどん人ぽん輔。

 午後からは、彼等が作業の途中で帰ってきたお宅へ。聞けば、作業をすればするほど、依頼が増殖しているらしい。これは何もこのお宅に限ったことではなく、よくあることだと、今となれば思う。おそらく、ボランティアに依頼するのにためらいがあった人が「なんだ以外と頼みやすいな」と気付くのか、いきなり多くを依頼するのは申し訳ないと思うのだろう。ただ、ひとつ確実に言えるのは、「楽に見える依頼には要注意」

 日野町のめいっぱい端にあるその家についた。それは、玄関を出て、ぼーっと歩いていると電車にひき殺されるというすてきなお宅。残っていた作業は、腐っていた畳をたんぼまで運ぶこと。「地震だからって、畳は腐らないよな〜」とぶつぶつ独り言を言いながらも、雨のなかなんとか終了。そこのおばあちゃんが、お礼にといろんな物をくれた。ちょっと紹介してみよう。

 まず、ポポ。ヨッシーの「放浪記」にもでていたが、果物なのに人工的な味のする甘い甘い不思議な物体。昔はよくあったらしい。さらに、タオル。我々が濡れていたからくれたと思うんだけど、無地のはずなのに模様があり(実はカビ)、強烈に農家の納屋の臭いがした。きわめつけは、紅茶。一目でリプトンと判る黄色と赤のティーバッグ。でも、見たことのないデザイン。よく見ると、「賞味期限S63」の記載が!殺す気か!帰るときに「日野町の〇〇を忘れんでね。ポポの〇〇を忘れんでね。」と何度も言っていた。忘れるはずあるかい!

 次は、一度シートが張ってあるが、雨漏りがするので、直してほしいというお宅へ。土嚢が必要なため、ぽん輔と私が取りにいくことに。初めて藤原自動車号の運転席に座った。発進しようとクラッチをもどすが、いつまでもつながらない。「あれ?」と思ったところで、ドンッッと猛ダッシュ。減速しようとブレーキを踏むが、まるっきりきかない。もう少し深く踏むと、やっぱりバンッッとつんのめる。なんだ、こりゃ?車というより鞭打ち患者製造機。

 そんなこんなで、無事雨漏りが止まり、帰ろうとすると、その家のおばあちゃん(Tばあちゃんとでもしておこう)が目を潤ませ、まるで仏様を拝むように手をあわせて礼をいわれた。いつかそれに見合う人間にならねば。

 宿泊するボランティアの数も減り、スペース、毛布に余裕ができているということで、日野に泊まることにした。宿泊所は日野町社会体育館の一室。メンバーのみんなといっしょにそこに着いたとき思った、「タコ部屋?」

 夜、はらっぺが電話をかけたいということで、車で送る。公衆電話を捜しながら車を走らせたが、結局かなりはなれた根雨駅まで。はらっぺが電話をしているあいだ、ぽん輔、あべちゃんとなぜか軽バンで岡山との県境まで走る。何やってんだか・・・。毛布の割当は一人6枚で、3枚をしき3枚をかけて寝た。これでもぎりぎり寒くない程度。人数多いときはたいへんだったろうなぁ。

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