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くわまん日野日記
2000年10月・鳥取西部地震。地震直後から、コツコツと災害ボランティア活動を続ける、我らが、くわまん。そんな彼が綴る体験記です。

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phan-phan
第十一部 <明日への一歩>
2月9日

 藤原自動車号があと一週間で車検となるため、もうすぐ返さないといけないということを先日知った。でも、藤原号はシート張り繁盛記での大活躍(?)でドロドロ。目一杯がんばってくれたこの車を、このまま返す(帰す?)わけにはいかないと「藤原自動車号洗車ツアー」を企画。ぽん輔、あべちゃんに声をかける。

 
2月11日

 彼は茫然としていた。みんなになんって言い訳しようかと悩んでいた。「藤原自動車号洗車ツアー」にぽん輔とあべちゃんが参加できることになったので、センターに様子を聴いてみたのだが・・・、「藤原自動車号?もう返しちゃいましたよー。なんか廃車になったみたいですー。」TYさんが明るく、いや明るすぎるくらいに答えてくれた。

 悲しい事実を知った。ジェットコースターのようなスリルを与えてくれた藤原号、土嚢を載せると下り坂ではどこまでも止まらなかった藤原号、その藤原号が星になった。TYさんの明るい声が悲しさに追い打ちをかけていた。ぽん輔、あべちゃんにも言い訳をしなければならない。気が重い・・・。

 
2月13日

 「藤原号洗車ツアー」改め「久々シート張りツアー」開催。参加者、ぽん輔、あべちゃん、私。朝、あべちゃんと待ち合わせたあと、ぽん輔を雪の中(!)へ迎えに行く。約束の場所に着いても、ぽん輔の姿はない。

 しばらく待っていると、こちらに向って走ってくる人影を発見。く「あれかなー?」あ「いやいや、あんなんじゃなかったでしょ。」く「そうだよな。あんな感じじゃあなかったよな。」でも、その男はこちらにやってきた。やっぱりぽん輔だった。若返った?いや、日本人になった?という感じ。

 ぽん輔いわく、「そりゃあ、ホテルで働いてるんだから、髪くらいのばすし、髭もそりますよ。」

 久々に会ったこともあり、日野町までの道中、話が盛り上がった。ひそかにこれでけっこう体力を消耗(どこまでおっさんや)。

 センターに着くと、Wさんが来られていたし、マーシー(仮)も体育館に住んでいるから当然いた。

 この日は屋根のシート張りを一件こなし、崩れた石垣にもシートを張った。この石垣は下にあるお墓に向って崩れ落ちており、そのお墓は石垣をなおさないと修復できない。でも、石垣をなおさないといけない、上の畑の所有者の経済的負担も大変だろうなぁ。

 作業後、ぽん輔がマーシー(仮)をA.P.F.に勧誘していた。というより強引に入らせていた。「マーシー」の誕生である。

 
2月16日

 この日は朝から高熱がでていた。昨日の朝の最低気温は-3℃。にもかかわらず、起きたら布団が掛かってなかったのが原因だろうか。それにしても、地震後二度目の高熱。いったいいつのまにこんな貧弱になったんだろう。もともと、という噂もあるが・・・。

 午後からは、米子で開かれる県主催の行政・企業・ボランティアの意見交換会に出席する約束になっていた。こんなコンディションじゃあ役に立てないだろうとは思ったが、行かなければならない。出席することはしたのだが、このコンディションのため内容はまったく覚えていない。覚えてることといえば、S君が帰ってきてて出席してたことぐらいか・・・。少しでも役に立ったかどうか不安。役に立ったとは、到底いえないだろうということは容易に推測できるけど。

 やめときゃいいのに、この後、就職にあたって提出する写真を撮りに。今思えば、正常な判断能力を失っていたよな〜。後日、できあがった写真を見ると、どう見ても100%病人。しかも、これを提出しちゃいました。

 
2月17日

 昨日無理をしたせいか、体調がますます悪化。

 この日から日野町の災害ボランティアセンターで聞き取り調査が始まる。センターが現在の体制を維持できるのは3月いっぱいなので、その後をどうするかを考えるにあたって参考にするため、お年寄りにいろいろと話をきこうというもの。マーシーが中心となって企画。

 後日きいたところによると、それに参加できないかということでセンターのTYさんが私に電話をして、私がちゃんと対応したらしいが・・・、寝込んでいた私にはまったく記憶がない・・・。

 
2月23日

 この日は日野町で聞き取り調査に参加。なんだかよくわからない注射(!)を、打ってもらったこともあり、この頃には体調も回復。

 この日最初に行ったおばあちゃんの家の玄関先に着くと、中から話し声が聞こえた。「来客中かな〜?」と遠慮がちに戸を開けると電話中だった。おばあちゃんは我々に気付くと、電話の相手に何も言わず、なんとゆっくりと受話器を置いたではないか!受話口からは話し声が聞こえていたのに・・・。

 いいの?それとも、私が知らないだけで、お年寄りに電話をするときには途中で切られてもしかたない、というルールでもあるのだろうか?

 調査の方はというと、どのお宅も暖かく迎えてくれ、こちらが恐縮してしまうほどだった。同行したKDさんの力だろうか。この日行った地区はやや奥まったところだったため、買物や通院の足に困っているという声が多くきかれた。

 
2月24日

 日野町で、今後のボランティアについて考える会「災害とボランティア」が開かれる。

 その第一部講演会では、地震初期にコーディネーターとして、阪神・淡路地区から来られていた方二人が講演をされた。そのうちの一人は、「ポポ」を見て「おぉー!伝説のフルーツやん。」と食べた後に種を持ってかえったNGさんだった(第三部およびヨッシーの「ボラティア放浪記」参照)。

 第二部座談会では私も発言することになっていた。昨日、マーシーが「パネラーやって。」とやわらかい口調で強く要求してきたからだった。実際にした発言は少しだけだったけど、終了後には得体の知れぬ疲労感が。

 第三部は懇親会という名の飲み会だった。会場は、言わずと知れた社会体育館。宴も中盤にさしかかったころ、私はマーシー、S君、YG先生たちと話をしていたのだが、そこに某Cさんがやってきた。そして「あのよー、○○はよー、・・・(15分)・・・」などと、私に某団体に対する不満や批判を聞かせ続けた。しかも、つめたいことに一緒にいた3人は私をいけにえとし、3人だけで輪をつくり、Cさんがはいってこないようにしていた。なんだかなぁ・・・。

 終盤にさしかかると、一人、また一人と帰りはじめていたのだが、相当酔っているらしいKJさんは「帰ります」と言って出ていっては3分後に戻ってきた。そして、しまいには「毒舌ボランティア」と評されるYKさんにしつこく求婚するしまつ。KJさんが本当に帰りはじめたときには、心配だったので送った方がいいとS君が追いかけて行ったのだが、案の定、側溝にはまって動けなくなっていたらしい。

 この夜、私は体育館に泊まった。

 
2月25日

 起床後、Wさんの指導の下(?)朝食をとった。

 午前中、シートの張り直しの依頼の入っていた家へ、Wさんと下見に行った。かつて私が未知との遭遇をはたした青い城塞である(第五部参照)。ここはまだまだ雪が深く、とても屋根作業ができる状態ではなかった。雪解けを待つことに。

 午後からは、YG先生と聞き取り調査へ。最初のお宅は拒否的な雰囲気があり、15分程で終了。2時間やったくらい疲れたけど。次のお宅は暖かく迎えてくれ、ほっと安心。こたつにあたらせてもらいながら、2時間以上(!)も話をうかがうことができた。普段、話相手がいないということもあるのだろう。この家もそうだったが、家の修復の経済的負担の問題などが心配、という声もやはり多い。

 泣いても笑っても現在のセンターの体制が維持できるのは3月いっぱい。聞き取り調査という新体制へのバトンタッチの第一歩は踏み出された。少しでもいい形で引き継がれるといいなぁ。

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