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くわまん日野日記
2000年10月・鳥取西部地震。地震直後から、コツコツと災害ボランティア活動を続ける、我らが、くわまん。そんな彼が綴る体験記です。

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phan-phan
第五部 <続々・日野町にて -つかのまの落ち着き- >
10月27日

 この日の朝、ぽん輔も日野に行くということで、米子市内の「どこか」で寝ていた彼を車でひろった。仕事の面接も終わり、後は結果を待つだけで、時間ができたらしい。

 センターに着くと、今やっている現場で人手が足りないということで、待機中だったおじいさんとそこへ。移動にはそのおじいさんの軽自動車を使った。始めは快調に走っていた。ところが、信号待ちで止まる、青になる、・・・(20秒)・・・、発車。しかも、どうやらこれが通常の反応速度らしい。・・・不安になる。国道にでると50km/h程で走りだす。この道の流れはおよそ50〜60km/h。まずは順調。しかし、おじいさんは話に夢中になってきた。その熱の入り方に比例して、速度が下がりだし、最終的には30km/hを割り込むほどに。あまり車の通らないこの道で、後ろは大渋滞。・・・不安はつのるばかり。

 それでも、なんとか無事にたどり着いた。そこで、大阪から来たというKMさんと知り合う。彼はこのあとも何度か日野町に足を運んでいる人だ。M新聞のカメラマンさんも来ていた。ここでの依頼内容は瓦を屋根からおろすこと。家は取りこわさなければいけないが、瓦はまだ新品なので、また使いたいということだった。全部人力で巨大な屋根の瓦おろし、しかも屋根の上の作業で足元に気を使い、瓦を割らないようにも神経を使う。なんだか、変な汗が出た(どんな汗?)。昼休憩で、一旦、センターに帰ろうというころには、もうくたくた。でも、まだ半分も終わってない・・・。

 そして、センターへの帰り道、道が別れるところで、「これ、どっちでしたかな?」と、おじいさん。「右だと思いますよ」と、私。でも、「いや、こっちだったでしょう」と逆へ(!)。結局、道に迷った。しかも、狭い道で、引き返そうと向きをかえるときには、崖から落ちそうになるし。・・・不安は確信に変わりつつある。

 昼食をとり終わり、再びあの現場にもどるころになると、やってもやっても終わりの近づかない作業を思いだしブルーになる。「なんとかテンションを高いところにもっていかないと」と思いつつ、おじいさんの車に乗り込む。でも、そのラジオから流れていたのは、長渕剛「巡恋歌」。・・・つらい。次に流れたのは、中島みゆき「悪女」・・・。結局、ローテンションのまま現場に着いてしまった。

 午後からは、ますます状況が悪くなり、瓦を一枚一枚手渡しでおろすはめに。瓦を一枚ずつ!!気が遠い・・・。

 作業も終わり、センターへの帰り道、信号のない交差点で国道に出ようとしたときのことである。おじいさんが右を確認、車は来ていない。左を確認、来ていない。しかし、なかなか出ない。そのうち、右から車。おいおい、今でるんかい!全身が硬直。断言しよう!不安などではない。事故らなかったのは奇跡にすぎない。今、私がここにいることは奇跡に近いのである。

 この日の活動終了後、ぽん輔を米子駅に送った。彼は、明日、明後日と日野に行くつもりということだった。

 
10月29日

 この日、センターに着いて、ぽん輔の姿を探してみたが、見つからない。ほとんどやけくそで、そのへんのおじさんにきいてみた。「浅井君(ぽん輔)て知ってます?」「ああ、浅井君。なんか、仕事決まったから、スーツとか買いに行かんといけんって言っとったよ。」そうか、面接に合格したのか。それにしても、なんでみんな知ってるんだ?

 この日の活動は引っ越しの手伝い。近くの高校で教師をしているYG先生の車で現場へ。この家もすさまじい状態だった。とても住める状態ではないが、仮設住宅ができるのはまだなので、近所のお宅のはなれをかりるということだった。ここには驚くべき秘密兵器が用意されていた。巨大なフォークリフト(!)・・・これがなければ、この引っ越しは大変な作業になっていたろう。かなり重い家具をたくさん二階に運ばないといけなかったから。作業の途中、YG先生の運転で藤原自動車号に乗った。まるでジェットコースターだった。バヒューン!バン!ガキッ!

 昼休憩でセンターに帰ると、A新聞の記者さんがいた。けっこう詳しく、いろいろきかれた。先日、ヨッシーとぽん輔が受けた取材の続きらしい。ただ、企画が「地元ボランティアを追う」みたいなものにかわってるということだった。

 午後もいっぱいかかって引っ越しを終えた。

 夜、今日の取材の件をA.P.F.のみんなに伝えようと、飲み会のときに作った名簿をもとにメールを送った。でも、なおぽんにだけはどうしても届かなかった(実はなおぽんの書いたnをuと読んでしまっていただけだったのだが)。

 しかたがないので、電話をかけた。「はい。」おばちゃんの声。「○○さん(なおぽん)ですか?」「違います。」「すみません。」間違えたらしい。もう一度よく確認してかけてみた。「はい。」明らかに不機嫌な声。「○○さんですか?」「ちがいます!」怒っていた。これがぽん輔の受難のイントロだった・・・。

 
10月30日

 夕方、A新聞の記者さんから電話。先日の取材を記事にするために、写真を撮りたいので、次にいつ日野町に来るのか知りたいとのことだった。明日行くつもりだったので、そう伝えておいた。

 夜、今度はぽん輔から電話。働き始めたこと、寮が携帯の電波の空白域にはまっていることなどを聞いた。「そういえば」と、なおぽんの電話番号のことを尋いてみた。そこで発覚!ぽん輔の受難!それは・・・。

 おばちゃんX「もしもし。」ぽ「もしもし、○○さんですか?」X「違います(怒)!!あんたねぇ、昨日も電話してきたでしょ!いいかげんにしなさいよ!」ぽ「え・・・、いや・・・、してませんけど・・・。」X「そうなの。じゃあ、変な女にでもひっかかったんでしょ!どこでナンパしたの?だいたいねぇ、あんた、女を見る目ないでしょ!そんなんじゃダメじゃない!」・・・この後、説教が延々と続いたらしい・・・。注:伝聞のため、尾ひれ、背びれがついております。

 
10月31日

 朝、目が覚めると、「なんか変だ」と思った。起き上がろうとしたが、起き上がれない。「はぁっっ!」と気合をいれてなんとか起き上がった。立ち上がって、歩こうとしたら、ふらついて壁に手をついた。なんだか千鳥足。寝ぼけてるんだろうと朝食をとりはじめたが、なんか食欲がない。おきてしばらくしても調子が良くならないので、なんだろうと思っていたら、どうやら熱がある。でも、A新聞との約束があるので行かないわけにはいかない。気休めのために熱を計ってみた。

 すると・・・。体温計の青い棒が見たことないところまでのびている!これを見た途端、目まいがした。こんなに熱がでたのは子供のとき以来だ。ボランティアに行って、ボランティアされてもカッコ悪いので、結局、一日中寝込むはめに。

 
11月4日

 この日は、大学時代に所属していたヤマKゼミの記念すべき第一回ゼミ総会が京都で開かれる。行かないわけにはいかない。時間はいくらでもあるし、お金をケチって、300kmの道程を一般道を使って車で行くことを決意。学生時代にはよく使った手。平均5〜6時間かかるが、10:00に出発。18:30の開始時間に余裕をもっておいた(はずだった)。

 しかし、どこへ行っても大渋滞。そう、この日は三連休の中日。忘れていた。大誤算。結局、大学の駐車場に車を停めたのは18:25。会場まで猛ダッシュ。なんとかまにあったけど、汗だく、息切れ、かなりアヤシイ場違いな存在になっちまいました。

 ここでも地震の話題がでた。やっぱりいたのが、出雲大社がつぶれたと思ってた人。そう、確かに、「出雲大社」と書いてあるように見える建物が派手につぶれてる映像が何度も全国放送で流れました。でも、あれは、境港市にある出雲大社教の教会。出雲大社ではありません。いや、確かにあれは誤解を与えるよね。これに関連して、私はマスコミ、特にTVの報道のあり方について疑問がある。確かにTVは映像が主体という点が他のメディアと決定的に異なる点であり、それが、最大の武器である。

 しかし、映像がそれほどインパクトの強いものであるからこそ、その使い方を誤れば、大きな誤解をうむのだと思う。実際、今回の地震でも、あの教会の周辺に、あの建物のつぶれ方から想像するような被害は他の建物にはない。むしろ、震源に近い山奥の方がずっと建物に被害をうけている。しかし、派手な「絵」がないから、それほどTVではとりあげられなかった。だから、このことを知らない人も多いのではないだろうか。やはり、見た目に派手な映像ばかりを追うべきではないのではないか。

 午前2時頃(だったかな)まで飲んで、解散となった。塀を乗り越え、大学に進入(深夜にあやしいよな〜)。学生のころはよくやった。開いてる正門まで歩くと5分は余分にかかるから。この夜は車の中で寝た。なにやってんだろ・・・。

 
11月5日

 朝6時頃、目が覚めた。車の中が明るくなって寝れなくなるのは計算外だった。頭がガンガンしたまま出発(オフレコでお願いします)。

 帰り道、昨日も来ていた友人のO君から電話。「A新聞にのってるでー。」後で確認したら、確かに載っていた。でも、やはり写真を撮れなかったせいか、かなり圧縮されていた。でも、少しほっとしたかも、大袈裟なことにならなくて。

 
11月7日

 久々に日野町に。センターに着いてみると、この日のボランティアはキリスト教会の牧師さん2人(そのうちの1人KCさんは、この後も他のキリスト教会の人に声をかけては日野にやってきていた人である)と私の3人。ついに3人にまで減った。それから、センターに専従のスタッフがおかれるようになったらしい。NMさん、KTさん、TYさんの3人。

 午前中は、解体家屋等から出た軽トラ2台分の不燃ごみを捨てに、岸本町にあるリサイクルプラザに行った。日野町から岸本町までの間には、江府町、溝口町があり、片道30分の道程。移動だけで1時間。なんだかもったいない。

 午後からは、屋根のシート張りの依頼のあったお宅へ。現場付近に着いて唖然。車は家から50mまでしか接近できず、階段があるため、ネコ車も20m位までしか近寄れない。はぁ・・・、作業前から溜め息がでた。家に着くとまたびっくり。母家、納屋、蔵、どれを見ても、屋根といわず、壁といわず、シートが張りまくってあった。その様はまるで青い城塞都市。いったい、これ以上どこにシートを張ろうというのか!

 声をかけると、おじいさんが出てこられた。顔が赤い。それになんだか臭い。そう、酒のにおいだ(!)。「あのー、どこに張ればいいんでしょう?」「あのな、こことここをな、○□×☆◇■」!!!「え?どう張るんですか?」「だけんな、○□×☆◇■」「はぁ、そうですか」

 まるっきりなんだかわからなかったけど、とりあえず作業を開始してみた。はしごはあると聞いていたが、用意されていたのは、野茂のトルネード投法のごとくひねりが入っていた。おいおい!作業は、「こんな感じですか?」「そうじゃなくて、☆●◇★×」「じゃあ、こんな感じなんですか?」「そうそう」といった手探りのものとなった。

 途中、屋根にもともと張ってあったシートのシワにたまっていた水が流れ、それを踏んだKCさんが足を滑らせ、屋根の上で転んだ。屋根の上の水には要注意。でも、KCさんは平気な顔をしていた。私なら胸からハート形の心臓がバクバク飛び出していただろう。彼は度胸が座っているのか、それとも、・・・。おっと、失言、神の国。とにかく、シートを張り終え、「こんな感じで良かったですか?」「うん、満足」初めて会話が成立、未知との遭遇。私も満足。

 
11月10日

 この日、日野町のボランティアセンターにつくと、関西から来たHG君という久々の宿泊ボランティアがいた。

 午前中の活動は、各地に置いてある仮設トイレ(工事現場とかによくあるようなやつ)の回収。ライフラインが復旧しつつあるのを感じる。2ケ所から3台を回収するのだが、「軽トラ2台で行けば1回でおわるから」とのことだった。

 最初の現場につき、みんなでトイレを持ち上げ、軽トラにつんだ。しかし、外側とはいえ、トイレに密着するのは気分いいもんじゃないね。載せ終わってみてびっくり。トイレ1台で荷台の3分の2以上を占拠。どうやって1回で運ぶんだ!だまされた!

 午後からは、依頼もなく、しばらく待機。すると、おばあちゃんが荷物運搬の依頼に来られた。楽な依頼と思ったが、作業を始めてみると困難を極めた(おおげさ)。家の荷物を畑に仮置きするとのことだったが、およそ50mの道程は狭くてすれ違うことができないところも多く、途中に階段があり、ネコ車も使えない。ベッドや本の入った箱などをすべて人力で運んだ。

 この日は、この後依頼はなく、いつもよりも早く帰った。災害直後に必要な緊急的な作業はもうなくなりかけ、日野町も落ち着きを取り戻しつつあった。

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